作家としてもの作りをする人が必ずぶち当たる疑問...
自分の手で作ることの意味は何だろう?
いまや、高度な機械技術だからこそ実現できる高品質な製品も次々と現れ
百円ショップに行けば、けっこう立派なデザインの品々が
豊富なサイズやカラー展開でずらりと並んでいる。
井山三希子さんは考えてしまうのです。
「自分のうつわはと言うと、ゆがんでいて、
水分がしみこみやすく、欠けやすい。注文が重なればひとりでは納期が間に合わず、、」
欠点をあげ始めると切なくなるばかり。
個展にお越し下さったお客様から「手の跡のデコボコがおもしろいですね」と、
話しかけられると、「ありがとうございます」と返事をしつつ
ホントは、いつだって手跡を残さないように「均一に。まっすぐに」と
懸命に唱えながら作っているのだそう。
井山さんのうつわ作りは
石膏で作った型に、平べったくスライスした粘土の板を
押し当てて成形するというやり方。
ですから、どうしても粘土を押した指の跡が表面に残ってしまうのです。
いっそのこと、もっとしっかりと手跡を残して
それがうつわのデザインの要素だと言ってしまえば気が楽になりそうですが
でもそれは、きっと井山さんの美意識にかなうものではないのでしょう。
でも、ちょこっと本音・・・
型で作る井山さんの仕事にまったく手跡が見えなかったら
今のような魅力が感じられるだろうかとも思うのです。
いったん人が意識してしまった以上、無意識の境地に戻って
作り直すということはできません。
無作為から生まれる純朴な美しさを再現したいと願う
その行為が確固とした作為であるわけですから
そういう意味では、機械で作ることの方がずっと素直なのかもしれません。
単純で明快な美しさを得る道として
プロダクトには大きな可能性があると思います。
一方、ぐるぐると作為と無作為がせめぎ合う中で
なんとか許せるぎりぎりの瞬間を探し出すのが、手でものを
作るということではないかと思ったりもします。
その瞬間が、曖昧で、微妙で、数値で表せるようなものではないのなら
機械が入り込む余地はないと言えます。
井山さんが、自分のうつわをプロダクトとして量産してみたいと考えたのは
その両方の意味をちゃんと確かめてみたいと思ったからではないでしょうか?
それは、自分の作ったもののコピーを自分で出すという意味にもなりますから
作り手としてどうなのかと悩むところではあったようです。
しかし、量産によって価格が抑えられ
若い人たちにも気軽に使ってもらえるならそれは嬉しいこと?
もしも、プロダクトと自分の手づくりとの両方に
違った良さを見出すことができたなら、自分の仕事に対して持ち続けている
長年の疑問を解消することにならないだろうか?
考えるほどに、やってみたい好奇心がふくらんでしまったのです。
こうして誕生した井山三希子×倉敷意匠のプロダクト第一弾が「YASUMI」シリーズ。 食べる事をリラックスして楽しんでもらうための道具として
多くの人に日々使っていただけたらと思います。